落日

 

     夕闇がせまる空に小さな灯りが見える。

     清漢宮の灯り。

     恭・範・漣とまわって帰途についたのは昨日のこと。

     廉王と廉麟になかば押しつけられるようにして、鸞 を飛ばした。

     帰宅する旨を告げる鳥はもう届いているだろう。

     こんな事は滅多にしないことだけれど、でもきっとみんな揃っていつものように

     出迎えてくれる。

     暖かい湯気の向こうに、穏やかな笑顔。

     窓から入ればお決まりの小言。

     何回繰り返したかもう解らないそのやり取りが懐かしくて、暖かい湯気が慕わしくて

     知らず知らず騎獣の足を速める。

     灯りはどんどんと大きくなり、安堵のため息が漏れる。

     実際、早く帰り着きたかった。

     疲れているとは思いたくなかったが…

     「私も年かなぁ。」

     自嘲めいた笑いが口元にのぼる。

     仙になって八百年あまり、その姿は変わらず。

     つい先だっても手痛い失恋をして…やっとその傷が癒えてきたのに。

     王どうしの恋が天綱に触れる物ではないと証明した彼らには、せいぜい頑張って貰わなければ。

     そうでなければ、陽子のいう「国家間の相互扶助」に賛同を得るためにこうして各国を回っている

     自分が報われない…

     「この世界が変わっていくのを見られるなら、失恋くらいかまわないけどね。」

     ようやく後宮の上空に着いた利広はめざす典章殿の窓へ騎獣を寄せた。

     窓を開けて明るい室内へ滑り込む。

     「あれ?」

     明るい室内に人影はない。

     「新しいパターンだね。誰もいない…。」

     いつもの席に腰を降ろしてみたものの、なぜか落ち着かない。

     しばらくして、自分を落ち着かなくさせている原因に気が付く。

     焚かれている香に混じってかすかに流れてくる血のにおい。

     「いったい、何処から…」

     油断無く周りに目をやって、そっと次の間に入る。

     そこには、ゆったりとくつろげる長椅子などがある部屋だが。

     扉を開けたとたんに強まる血のにおい。

     腰の剣を抜いて踏み込む。

     長椅子の下に大きな血溜まり。

     「…っ文姫!!」

     長椅子に横たわっている文姫の胸に深々と刺さっている剣。

     一見してもう息絶えているのが解る。

     「なぜ……」

     脳裏に反乱の文字が浮かぶ。

     危険因子はなかったはずだった。いったい誰が?

     「いけない…主上…昭彰」

     無事だろうか?

     ちらりと文姫を見る。

     血の溜まり具合から見て、刺されたのは大分前のようだが。

     争った様子もなく…。

     部屋から出て耳を澄ますが、人が争っているような物音はない。

     もう一つ、お茶などを支度する部屋に入る。

     利広は入口で立ちつくした。

     「か…あさん…。…っ昭彰っ!」

     手前に母親が、奥に昭彰が床を血に染めて倒れていた。

     使令を持つ麒麟がたやすく殺されるはずがないのだが。

     おそらく母親が先に刺され、その場にいた昭彰は動けなかったのだろう。

     そうでなければ…こんな風に麒麟の首を落とすことができるとは思えない。

     「終わり…か…」

     八百年の大国、奏。

     その終幕を引いたのは…。

     少しずつ…ぞわりとイヤな想いが襲ってくる。

           この後宮には櫨家の者以外ほとんど立ち入らない。

     多数の者の反乱にしては痕跡が少ない。

     よほどの精鋭が少数でこちらを狙っているか、さもなければ…身内の者か…

     カタン…

     何処かの扉が閉まった音に続いて乱れた足音がこちらへ向かっている。

     急いで扉へ向かって身構える。

     バンッ!

     「に、兄さん!」

     乱暴に扉を開けて足早に入ってきた兄は、傷だらけで血まみれだった。

     倒れそうになるのを受け止める。

     「兄さん、しっかり!誰のしわざなんです?」

     「…り…こう、…逃げろ。気をつけるんだ…おまえは…もう仙じゃ…な…い…」

     血まみれの手で握っていた書類を押しつけるように渡される。

     「これは…」

     仙を解く書類。母と子供たち四人分の…。

     「知らない間に仙籍から抜けていたんだ、私たちは…ただ人だ…」

     胸の傷をおさえ喘ぐように利達は話す。

     がっくりと膝を折り、顔色がみるみる蒼白になっていく。

     …ただ人…

     ふらりと床に崩れた兄の背中にざっくりと深傷が見えた。

     仙ならば何とかなるかもしれないこの傷も。

     「…ただ人では…な…」

     すっと先新が入ってきた。

     「とうさ…主上!!」

     自身の血か返り血か、衣装を血で染めたように朱く立っている。

     その手には抜き身の剣が光る。

     「お帰り、利広。待っていたよ。」

     いつものように穏やかな口ぶりは、禍々しく利広の耳に響いた。

     油断無く間合いを取りながら身構える。

     「いったい、なにがあったんです!…なぜ、こんな!!」

     久しぶりの再会が楽しいといった笑顔で先新は答える。

     「なぜ?…お前が望んでいたことではないか?解らないのかね?」

     「!…私が?…」

     一瞬呆然とした利広の隙をついて先新の剣が振り下ろされる。

     

     

     金波宮の露台で陽子と景麒は政務の中休みをしていた。

     気の早い三日月はもう沈みかけている。

     「あーあ、肩が凝るったら…。」

     大きく伸びをする陽子に景麒がたしなめる。

     「…主上。ですから、そういうことはお控え下さいと…!」

     小言が中途で止み、陽子の方が首をかしげる。

     「どうした、景麒?」

     「…血の匂いが…主上お早く、中へ。」

     「血?」

     (主上、卓朗君が…)使令が伝える。

     「利広?」

     すぐにスウ虞に乗った利広が降り立った。

     「利広!」

     駆け寄った陽子は、だが、すぐ立ち止まった。

     いつもなら一分の隙も見せない利広が、今日は喘ぐように肩で息をしている。

     髪は乱れ、衣服も破けて、所々黒いシミのように見えるのは血糊…

     なにより、いつもの人を引きつけて止まない笑顔はそこになかった。

     「何があった、利広?怪我をしているのか。ああ、とりあえず中へ。」

     陽子が誘うが利広は首を横に振った。

     「でも…そのままでは…。」

     「…聞いてくれ、陽子。」

     かすれた声をふりしぼる。

     「奏は…もう、終わりだ…。」

     「えっ!」

     「多分主上…父は気が付いていたんだ。」

     「もう、随分と前から、私たちは時折自分が生きている死人のような気がしていた…」

     「政務とか何かをやっているときは良いんだ。でもほっと一息ついたとき、文姫ですら、

      まるで死んだ魚みたいにその瞳に何も映らないときがあってね。母も兄も私も、多分同じに…。」

     「父が気づかないわけないのに…随分悩んだのだろう。壊れるほど心を痛めて…。」

     がくりと膝をついた利広に慌てて手を伸ばす。

     「漣から帰る間際に鸞 を飛ばした。あれがきっかけだったんだろう。二日後には私が帰って

      全員が揃う。だから…みんなの仙籍を抜いて…」

     「仙籍を…抜いた?」陽子は目を見張った。

     「私が帰ったときにはもう…文姫も母も昭彰も…っ」

     「そんなっ…亡くなった…のか?…」

     利広が目を伏せ肩を震わせる。

     「…宗麟も…」よろりと景麒が後じさる。

     「兄は瀕死で、私に逃げろと。もう仙ではないからと、」

     「では、宗王が…」

     陽子はあまりのことに言葉も出ない。あの温厚な先新殿が…信じられない。

     「父はみんな一緒に逝こうといって…私が望んでいたことだと…そうなのかも知れない。」

     利広の目から一滴涙がこぼれる。

     「あの時、なぜ父の剣を受け入れなかったんだろう…とっさに打ち返してしまうなんて…」

     「利広…」

     「たいした手応えは無かった。でも昭彰もいない今では、どのみち父の命もあとわずかで…。

      何時死んでも良かったんだ。もう生き飽きていたんだから…」

     利広は汚れた己の手のひらを見つめぽつりと言った。

     「あっけないな。何も出来なかった…。こんなものかな、国が沈む時というのは…」

     「自分を責めてはいけない。これからだって…」

     陽子の言葉を遮るように利広は立ち上がった。

     「陽子は尚隆と幸せにね。それと、奏をよろしく。これから厄介かけるけど。」

     「利広、まだ貴方の役目は終わってはいない。」

     陽子の言葉に利広はだまって首を振った。

     「じきに奏から追っ手が来る。櫨家の家族が殺され、帰ってきたはずの次男がいない。どういう意味か

      解るよね?」

     「でも、やったのは利広じゃない。」

     「それは、陽子が知っていてくれればいい。ただ人の私が…持って逝くよ。」

     「さよなら、陽子。」

     陽子を振り切るように利広の乗ったスウ虞はあっという間に見えなくなった。

     「…っ景麒…利広が行ってしまう…止められないのかっ…」

     陽子は景麒に取りすがった。

     「…なぜ…失うものが大きすぎる…」

 

 

              赤楽二百余年。奏南国、宗王、崩御。名を櫨先新。同時期に宗麟及び家族殺害さる。

             直後より第二太子利広は行方不明。犯人は利広とも先新とも言われるが委細不明なり。

             奏南国の傾国にあたり、慶東国、範西国、雁州国、恭州国、戴極国、漣極国が協議の上救済す。

             是より後、亡国に際し各国合議の上救済する為の初事例となす。    『慶史赤書』

     

 

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             朱姫さまのサイト「月下の華」開設祝いでございます。

                開設祝いに末声モノってどうなんでしょう?(聞くか?)

                いや、お好きだと聞いたもので…(だからってねェ)

                朱姫さまvサイトオープンおめでとうございます!

                これからも、どうぞよろしくお願いします。