涼風

 

       「すごい人ですね。賑やかで明るい。」

       玄英宮に来ていた陽子は、尚隆に誘われ関弓のはずれに来ていた。

       夕闇せまる関弓の下町。

       なにやら人が集まりつつある、その流れに沿って。

       狭い路地を曲がるとその一角だけにわかに明るい。

       道の両脇に露店が並び、人々が冷やかして通る。

       恋人とおぼしき二人連れ、若い男女のグループ、家族連れ、老夫婦…

       笑いさざめくその様子に陽子は軽いめまいを覚えた。

       「蓬莱の縁日に似ているか?」

       「…そっくりです。驚きました。」

       「行ってみるか?」

       路地の奥へと続く人の流れを示した尚隆は、陽子が肯くと手を差し出した。

       「迷子になっても困るからな。」

       ニヤッと笑う尚隆。

       「子供じゃありません!」

       ぷう、と頬をふくらませた陽子の手を強引につなぎ

       「ならば、なおのこと心配だ。」

       笑いながらそう言って歩き出す。

       (うそだ!絶対子供扱いだ…)

       自分の手を包み込むように握っている男の大きな手。

       (五百年も生きてる尚隆から見れば、わたしは子供か、いや赤ん坊に近いかも)

       半歩先を行く男の背をチラリと見上げため息をつく。

       カ…リン…

       なにか、とても懐かしい音が聞こえて陽子は立ち止まった。

       が、人が多くて何処から聞こえたのかは解らなかった。

       「どうした。欲しいモノでもあったのか。」

       「いえ、ただあの、風鈴の音が聞こえて。何処からかと…。」

       チリ…ン

       「ああ、…もう少し先に行くとあるはずだ。帰りに買っていこう。」

       「売っているんですか?ホントに?うわぁ、懐かしい…。」

               気をつけていると、ざわめく雑踏の中、時折風鈴の音がすれ違っていく。

       かき氷、金魚すくい、カステラのような焼き菓子、飴細工。

       子供の玩具や的当ての店。

       裸電球や人工着色料の目を射るようなまぶしさはないけれど。

       雪洞(ぼんぼり)の柔らかな灯りに照らされて、それは蓬莱の幻のように見えた。

       

       陽子の手に力が入っている。

       (泣くかもしれない…)尚隆はゆっくりと歩きながらそっと陽子の様子を窺った。

       大きく見開かれた目、噛み締めるように閉じられた唇がわずかに震えて開きかける。

       

       陽子がこちらへ来て二十年が過ぎ、慶は貧しいが活気に満ちた国になってきた。

       ひたむきな陽子の努力が、国を安定させ民に希望を持たせた。

       金波宮は新しい人材も増え熱気に沸き立つようだ。

       そこを遣り手の冢宰がうまく治め若い女王を助けている。

       予想以上だ…だが。

       先日ふらりと様子を見に立ち寄った時に、何気なく六太が言った一言で。

       和やかなお茶の空気が凍りつくとは思わなかった。

       「今年の蓬莱は猛暑だってさ。」

       とたんに景麒の眉間のしわが深くなって、陽子の顔が強ばった。

       機転の利く女史と冢宰がうまく話題を変えてしまったが。

       胎果の王の宮廷で、海客の女御までいるというのに蓬莱の話題が禁忌とは!

       どうなっているんだ、この二人は…。呆れると言うより心配になった。

               慶が安定すればするほど、景麒は陽子を失いたくないという気持ちが強くなるのだろう。

       景麒には陽子を攫うようにこちらへ連れてきてしまったという負い目があるからな。

       陽子が少しでも蓬莱を懐かしむ言動をすると、今に主に見捨てられるのではという恐怖に駆ら

       れるのだろうか。

       今の陽子の何処を見ればそんな発想になるのか俺には解らんが。

       まあ、最初の主に置いて逝かれているし…な。

       それが彼を思いやっての選択であっても、麒麟からすれば棄てられたも同然だろうから。

       (景麒のヤツ、仏頂面に磨きをかけおって…)

       陽子のことだから、景麒を不安にさせないよう、わざと話題にしないのだろうが。

       だが、望郷の思いは誰にでもあるものだ。

       国を救えず縋るように新しいこの国へ来た俺でさえ、時折六太がもたらす蓬莱の情報を聞き

       共に話すことで随分と癒やされてきた。

       まして陽子の場合は。

       今は、まだいい。

       望郷の思いは時がたつほど大きくなってくるものだ。

       何時の日か自分の中で抑えきれなくなった想いが陽子を壊すかもしれない。

       だいたい、生まれ育ったところの話が出来ないというのは、今までの自分を拒否されているような

       ものだ。拒否しているのが己の半身といわれる者では、陽子が救われんな。

       せめて、蓬莱を知る六太や俺が話し相手になって紛らすことができればと思ったが…。

       もう一度陽子の様子をながめて、小さくため息をつく。

       (蓬莱への思いを自分の中で押さえ込んでいる陽子には、この縁日は少々荒療治だったかもし

        れない。)      

       いつの間にか尚隆の握る陽子の手からは力が抜けていた。

       陽子は周囲を見ることもなくなり、尚隆に手を引かれるまま、ただ俯いて歩いていた。

 

       日盛りの日中はともかく、朝晩は涼風の吹く関弓なのに、この路地は人々の熱気でむっとしている。

       (暑い…)

       この暑さから逃れる為だけに、ただひたすら歩いている。

       道行く人の喧噪も、雪洞の灯りも何処か遠く、現実味に欠けて映る。

       (これは夢?)

       自分の手を握る尚隆の、後ろ姿だけがやけにリアルだ。

       ふいに周りの人々がばらけた。

       広場のようなところへ出たらしい。

       自分の周りの空間は広くなり、すうっと風が吹き抜けた。

       カリリ…リリン

       リリ…リン…チリン…リリン…

       沢山の風鈴が一斉に鳴りはじめる。

       「あ…涼しい……」

       風に吹かれ体にこもっていた熱が鎮まっていく。

       ふう、と息をついて傍らを見上げると穏やかに笑う尚隆がいた。

       「暑かったな。」

       尚隆の前髪が風に吹かれてふわりと揺れる。

       陽子がコクリと肯くとゆっくりと歩き出す。

       広場の奥に向かう人はまばらで、もう迷子の心配はいらないのに、手をつないだままで。

       陽子は握られている手が汗ばんでいるのが決まり悪かった。

 

       広場の奥には雪洞とロウソクの炎でひときわ明るい場所があった。

       近寄ってみると、それはちょうど陽子の背ぐらいの小さな祠だった。

       何人かその前で手を合わせて祈る人が居る。

       常世では宗教は余り根付いていない。

       珍しい光景に祠の中を覗いてみる。

       中には、石像が一体。

       顔は暗くてよくわからなかったが、丸い頭部には頭巾を被り、首にはよだれかけが。

       「地蔵菩薩だ。」

       尚隆が軽く手を合わせる。

       蓬莱のモノより体が大きく少々バランスが悪く見えるので、作者は素人なのかもしれない。

       尚隆にならって陽子も手を合わせる。

       と、傍らにいた女が嗚咽を漏らした。

       「…かあさん…かえりた…い…かえれ…ないよぉ…かえり…」

       その場に泣き崩れた女。黒い髪のところを見ると海客なのだろうか。

       その祠に詣でている者の大方は黒い髪だった。

       すすり泣く者も多い。

       (カエリタイ…カエレナイ…)

       陽子の耳から入った言葉が、昔の陽子自身の言葉と重なって体中に響く。

       (…イキテ…カナラズ…カエル!!)

       母の、父の、蓬莱の記憶が怒濤のように押し寄せてきて呑み込まれた。

       かくり、と足から崩れそうになった陽子を、抱きとめる。

       そのままそっと、明るい祠から少し離れる。

       「…っ、……」

       力の入らない四肢が震え、それでも体勢を保とうと、指先が尚隆の上着を握りしめる。

       泣き声をたてまいと歯を食いしばる陽子の姿は。

       日頃この少女がどんなに無理をしているのかを尚隆に知らしめる。

       「…泣いていいんだ…蓬莱を偲んで涙する…此処はそういう場所だから。」

       そう告げてそっと抱きしめる。

       肩が震えて小さな嗚咽が漏れてきたのは、それから暫くしてからだった。

 

       祠の灯りがボンヤリと見える。

       大きな木の根本に腰掛けた陽子はため息をついた。

       (瞼が重い…きっと目も鼻も赤くなってひどい顔をしている…)

       堪えていた想いが涙と共に溢れて。

       一度溢れ出した涙は、なかなか止まらなかった。

       (誰かに縋って泣くなんて幼い子供みたいだ…)

       頭の芯が痺れるようで体がだるい。

       だが、肩の力が抜けてホッとしている自分が居る。

       蓬莱への思いをそんなに溜め込んでいたつもりはなかった。

       ただ景麒とうまくやっていきたかっただけ。

       蓬莱の話をすると、とたんに不機嫌になる麒麟。

       だからその話題を避けていた、自分。

       「ああ、そうか…」

       (なぜ不機嫌になるのか、ちゃんと聞いてなかった。

        景麒の顔色を窺っていただけじゃないか。

        今までと同じ間違いをまた繰り返すところだった。)

       尚隆はそれに気付いたのだろうか…だから此処にさそった?

       泣くだけ泣いて陽子が落ち着きを取り戻したとき、

       「すぐ戻る。」

       とだけ言って尚隆は暗闇に消えてしまった。

       顔を上げて周囲を見回す。

       「あんたも蓬莱から来たの?」

       突然声を掛けられて振り向くと、さっき祠で会った女がいた。

       「私は、胎果で…」

       「そっか…でもこっちの記憶は無いんだろう?生まれる前の事だもの。」

       陽子が肯くとにっこりと女が笑う。

       「あんたは此処は初めて?そう。

        あたしはこっちに来て十年になるけど、うちの人が此処を教えてくれてね。

        五回目くらいかなぁ。懐かしい景色だよねぇ。」

       「関弓にいる海客には此処は有名でね。ちょうど蓬莱のお盆に当たる日にはこうしてお祭りさ。

        蓬莱を偲んで海客が来るし。海客同士で積もる話もあるし。

        珍しいモノもあるからこっち(常世)の人も繰り出して賑やかでね。」

       広場の向こうで父親らしき男と手をつないだ子供が手を振っている。

       女は手を振り返して笑う。

       「うちの人と子供。二人ともこっちの人だけど…良くしてくれてねぇ。蓬莱の話もよく聞いてくれるんだ。

        訳解らないだろうにね。もっと解る人とも話したいだろうからって此処へ連れてきてくれる。

        あたしには過ぎた人なんだ…。だからあたしも此処で頑張ってる。バリバリ働いてね。」

       「ただ…あたしがこうしていることを向こう(蓬莱)の親は知らないんだよねぇ。

        結婚して幸せで、孫もいるって知ったらどんなにか喜んでくれるだろうと思うと…切なくてねぇ…」

       「あんた、さっき一緒にいた人はあんたのイイ人?照れることないよ、いい男じゃないか。

        あんたしか眼中にないって感じだったねぇ。大事になさいよ?

        ああ、もう行かなくちゃ。また会いましょうねぇ。」

       ほとんど一方的に喋った女は、手を振って家族のもとへ走っていった。

       手を振り返した陽子はやっと気付いた。

       「そうか…言葉か…」

       海客はみな言葉が通じないことに苦労する。

       初めてあった海客の老人も鈴も。

       此処で海客と会えば、少なくとも日本語で話が出来る。話が通じる。

       同じ出身の似たような境遇の者同士、慰め合い励まし合うことが出来る。

       「なるほど、確かに貴重な場所だ…。」

       「…何が貴重だって?」

       ふいに頭の上から声がする。

       上を向くと濡れた布が額に落ちてきた。

       「ひゃっ…冷た…尚隆〜」

       「少し瞼に当てておけ。赤い目をしたまま帰すと朱衡達に俺が怒られる。」

       言われるまま瞼に布を当てる。冷たさが気持ちいい。

       「よくしゃべる女だったな。」

       「聞いてたんですか?もう…来てくれれば良かったのに…。」

       「…はは。根掘り葉掘りいろいろ聞かれそうでな…。それは、まずいだろう?」

       「…確かに…。」

       リ…リリン…

       クスッと笑う陽子の耳に風鈴の音が響く。

               「…良い音色ですね…涼しげで…。」

       「…風鈴か…。」

       陽子の傍らに腰を降ろす。

       「風鈴を常世で最初に作ったのは海客なんだ。」

       「海客…」

       「ああ。今から百年以上も前の話だ。一人の海客が吹き硝子(ガラス)の職人でな。」

       「当時まだ雁にはそんな技術が無かったから、さっそく取り入れた。工房を作って

        職人を育てた。杯や置物、花瓶、色々と作ってな。風鈴もその一つだった。」      

       「海客は蓬莱を偲んで石の地蔵を作って、この広場に置いた。盆のこの時期に

        地蔵を祀って、風鈴の露店を出した。」

       「しばらくすると風鈴の音色に引かれるように、何人かの海客が来るようになった。

        ここへ来れば、同郷の者がいる。言葉が通じる。噂は広まり、この賑わいというわけだ。」

       「こんなに海客が?」

       「まさか。三年に一人としてもだいたい六十年で二十人。海客で仙という者は殆どいないから

        そんなところか。ただ、その家族や子孫が、生前の海客を偲んで同じように此処に詣でる。

        風鈴は海客だけではなく雁の者にも人気だが、売っているのはこの時期、この場所だけだ。

        弟子達が、海客の意志を継いで守っている。」

       「海客の意志…。」

       「その人気にあやかろうと他の連中もいろいろな店を出した。夕涼みがてら人々がくり出し、

        今ではこの季節の恒例行事のようになってしまった。もとの由来を知らない者の方が多いな。」

               リ…リリン…カリン…リン

       目を閉じていると風鈴の音がより鮮やかに聞こえる。

       「さて、風鈴を買ってそろそろ戻るか。」

       祠の前には家族連れが来ていた。

       幼子が大人をまねて小さな手を合わせていた。

        

       金波宮の窓からも涼風が入るようになって朝晩は大分しのぎやすくなった。

       陽子の執務室の窓に、赤い魚の描かれた風鈴が一つ揺れている。

       カリ…リン…リリン…

       景麒は眉をひそめた。

       「これは…。」

       「これは風鈴といって音色を愉しむモノなんだ。蓬莱では夏よく見かける物だ。」

       「蓬莱…ですか…。」

       ますます渋い顔になる景麒を見て苦笑する。

       「気に入らないか?蓬莱のモノが…。」

       「は…その様なわけでは…。」

       自覚がなかったのか、慌てて否定する景麒。       

       「帰りたいけれど帰れない…海客達の嘆きを聞いたよ。故郷に残した人への想いも。

        その気持ちは良くわかる。みんな同じなんだなあって思った。」

       景麒はすうっと背筋に冷たいモノが流れる気がした。

       白い顔をますます白くした自国の麒麟を見て陽子は困ったように笑う。

       「これからどんなに長くこちらに居ようと、蓬莱に十六年居たということは変えられない。

        この先も蓬莱を偲んで折に触れ懐かしがってそんな話をするだろう。」

       「でもね、景麒。懐かしい故郷の話をするのを自分の半身が嫌がっていたら悲しい。

        それまでの自分を否定されているみたいで。話の内容まで理解しろなんて言わないけど、

        せめて懐かしく思うその気持ちを解って欲しい。」

       「そのように蓬莱のことをお話しになっているうちに、里心がつかないと言い切れましょうか…。」

       「里心…。そうだね、遠い将来にはあるかもしれない。未来のことは解らないけど。

        でも、今は信じて欲しい。帰りたいけれど帰らなかった私を。

        今だって…帰ろうと思えば方法はあるけど。

        でも此処に居場所を見つけてしまったから、帰れるけど帰らないから。」         

       リリ…リリン

       穏やかな風にそっと音が出る。

       「これは、昔、海客が雁に伝えたもの。今は雁で作られている。一人の海客の仕事がこの常世に

        根付いたんだ。私も、私の仕事がこの国に少しでも根付くように頑張らなければね。」

       「主上…。」

       リリン…リン…

       風鈴と少し頬を上気させた麒麟の金の髪が風に揺れた。

       

 

       

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       

         鏡月様、サイトオープンおめでとうございます!

           ナンのひねりもないただ長い駄文でございますが、サイトの末端に加えて頂き

           少しでも、開設時の賑やかしになれば幸いですv

 

                         鏡月様にさし上げたところ、素敵なイラスト付きでアップして頂きました。

           ぜひ、鏡月様のサイトでご覧になって下さいv

           当サイトのP−BBSでもおなじみの鏡月様のサイト「地球教」は<りんく>から行けます。