王の時間

 

    夜も更けた頃、やっと玄英宮の禁門に着く。

    六太の使令が先触れをしたらしく、お忍びではあるが篝火が多くたかれ

      冢宰の白沢が出迎えていた。

    「主上お帰りなさいませ。陽子様ようこそお越しなされました。」

    「またお世話になります。」

    「皆、お待ち申し上げておりました。どうぞ、ごゆっくりお過ごし遊ばされますように。」

    「オレ、腹減ったー。何かない?」

    「軽いお食事の用意がございます。」

    「やったー。早く行こー。」

    

 

    陽子の部屋は正寝にあった。

    本来は掌客殿なのだろうが、お忍びということもあり尚隆の個人的な客扱いで

    王の私室の一角が当てられた。

    夏の盛りではあるが、雁の夜は涼風が吹いて過ごしやすい。

    陽子は露台で昨夜の事を思い出していた。

 

    国境をこえ雁に入ったところで、昨日は一泊した。

    騎獣がいるので格式の高い宿を取った。

    広い牀榻 で横になった時、ふと楽俊と旅をしていた時の事を思い出した。

    あの時は、食べて眠る場所があるのが嬉しかった。

    雑魚寝でも野宿じゃないのがとてもありがたかった。

    食べて眠るだけ――今だって同じなのに、この部屋の違いは何だろう?

    調度品も広さも、一人の物とするにはずいぶんと贅沢だ。

    こんな部屋を持ちたいと、人は努力するのだろうか?

    こんな部屋に見合った生活を維持していくために、努力し続けていくのだろうか…

    ふっ、となんだか笑いたくなった。

    「王宮は…私の臥室は…こんなもんじゃない…」

    じゃあ私は…どれだけの努力をどれだけの間続けなければならない?

    王は幣れるまで生き続ける――

    この先の事を考えると目眩がした……

 

    夜の雲海は暗く闇に沈んでそれとは見えない。

    波の音だけが繰り返される。

    陽子は目を閉じその音に聞き入った。

 

    永遠に繰り返される潮騒は、自分の内なる獣を呼び覚ます。

    血を好み、殺戮を好む獣を――

    大声で叫びたくなる衝動を抑えようと、歯を食いしばり石の手すりを掴む。

    「……っっ……」

    声の代わりに涙がこぼれた。

    

    「其処にいるのか?」

    突然の声にはじけるように振り返る。

    「延王……」

    いつの間に来たのか、部屋の灯りを背に受けて尚隆が露台に立っていた。

    思わず頬をぬぐい俯く陽子に、静かに手に持った酒瓶を持ち上げてみせる。

    「少し飲まんか?」

    露台に座り込み手すりにもたれて、尚隆は慣れた手つきで酒を酌む。

    陽子が以前好きだと言った花の酒。

    花の香りが露台に漂う。

    尚隆は、何も言わず杯を陽子に渡し、陽子も黙って受け取った。

    自分用に別の酒を注いで、尚隆は陽子の持っている杯に自分の杯を軽く当てた。

    瑠璃の杯がカチリと音を立てる。

    黙ったまま尚隆は杯を口にする。

    陽子は杯を手に持って、身の置き所がないように感じていた。

    さっきから尚隆はほとんどしゃべらず、じっと陽子を見ている。

    どうしたのかという問いもなく、陽子が自ら話し出すのを待っている。

    

    尚隆が三杯目の酒を飲みかけた時、陽子は口を開いた。

    ――まるで声が喉に引っかかっているみたいにもどかしい。

    「これから先、何年同じ事を繰り返して行くんだろう。そう思ったら、永遠という時が

     途方もなく感じて…。いつ終わるのかと思って…。

     すいません。こんな事。

     五百年以上国を守っている延王に、たかだか十五年かそこらの私が音を上げるなんて……」

    手が震える

    顔が上げられない

    言ってしまった……もう取り消せない

    失望される……王の器ではなかったと

    「俺は、いつ終わろうか…とおもうがな。

     どう終わらせようか…とな」

    思わず延王を見る。

    静かに陽子を見ながら、尚隆は続けた。

    「昨日見た慶の国は、ずいぶん緑が増えていた。陽子の十五年分の成果だな。

     人々も他から戻り子供も増えた。」

    「荒れていたのは大地だけじゃない。官も人も。

     それは、王が玉座についただけでは治まらん。」

    「陽子はよくやったと思う。特に官や人は何代か続いた失政で荒んでいた。

     なまなかな事では治まらんだろう。」

    「最初の十年。官を見つけ国の基盤を作る。これが一番大変だ。

     庶民出の王は王宮のしきたりや国政等、よく知らんからな。

     俺や陽子の様な胎果に至っては、世の常識すら知らん。

     字も読めず、書けず。」

    「それで人の上に立とうというのだから、まあ苦労だな。

     しかし陽子、十年過ぎて大分この世界の事がわかってきたろう?」

    「それは…浩瀚達が随分と助けてくれるから。人形のようにただ聞いてるだけじゃなくて

     奏上される事も何とかわかってきたし、自分なりに意見も言えるようにはなったけど…」

    「たしかに登極した頃とは違う。陽子が努力して手に入れたものだ。」

    陽子はそっと酒を口に含んだ。花の香りが広がる。

    「陽子は国を興した。――満足か?これで。

     これで充分だと思うか?」

    「――! まだ! まだ始まったばっかりで、満足だなんて―……あっ」

    陽子は思わず手で口をふさいだ。  

    「忘れるな陽子。天意を失えば王は終わる。それまでは生き続ける。

     だがな、王は自分の意志で終わらせる事も出来るんだ。」

    ふっ、と尚隆が笑顔を見せる。

    「今の陽子は、山を登ろうとして 頂きの見えない山を見上げて足がすくんだ。

     ただ、それだけの事だ。山を登る目的を見失う事がなければ、険しい山でも

     ゆっくり、少しずつ登っていけるさ。」

    「途中で遭難するかもしれません。」

    大分表情が和らいだ陽子に、酒を注ぎながら尚隆は笑う。

    「その時は、皆で探してやる。泰麒の時のようにな。」

    くすり、と笑った陽子の目に新たな涙が光る。

    「ふがいないな、すぐこうして迷ってしまう。『やるんだ』って、自分で決めた事なのに…」

    尚隆の姿が涙でぼやけ、陽子は目を伏せた。

    衣の音がして、ふいに ふわりと暖かいものに包まれる。

    「え、…えんお……」

    慌てて顔を上げるとすぐ傍に尚隆の顔があった。

    思わず俯くと尚隆の胸に顔を埋めた格好になってしまい、固まってしまう。

    尚隆はそんな陽子の肩をそっと抱いて、淡々と話す。

    「生きてる以上、誰でも迷う。俺も利広も。

     迷って、苛立って、何もかも嫌になる。」

    静かに話す尚隆の声が、衣越しに体に響く。

    「嫌になって、―それからまた何か目的を見つけて歩き出す。

     そんな事の繰り返しだ。」

 

 

    ――暖かくて気持ちいい――

    陽子は尚隆の声を感じながら、ほっと息を継いだ。

    「延王でも迷う事があるんだ。」

    「…まあな」

    「こんな風に迷ったら、また来てもいいですか?」

    「ああ。――お前は一人じゃない。景麒も楽俊も利広も、皆手を広げて待っている。

     勿論、俺も。」

    ――暖かくて、体がふわふわして――

    ゆっくりと話す尚隆の声が、だんだん遠のいていく……

 

    尚隆は残っていた酒をゆっくりと飲み干した。

    陽子の体が くたり、と重みを増す。

    ――夕べは眠れなかったようだったからな、無理もないか。

    すっかり眠ってしまった陽子をそっと抱いて、室内へ戻る。

    「そう安心して眠られるとな……」

    苦笑しながら、陽子を臥床に横たえ、部屋を出る。

 

    廊下に六太が座り込んでいた。

    「陽子、大丈夫か?」

    「眠った」

    「…手、出してないよな?」

    「気になるか?」

    くすり、と笑って片眉を上げる。

    「やれやれ、信用されてないな。」

    尚隆は大袈裟に肩を竦めてみせる。

    「普段が普段だからな。」

    六太もわざと大きくため息をつく。

    「ま、いっか。明日陽子に聞けばわかることだし。尚隆がもてるわけないし〜」

    そう言って尚隆の反応も見ずに、さっさと仁重殿へ戻っていく。

    六太の後ろ姿に苦笑を返して、臥室へと歩き出す。

    ――無邪気に眠る陽子――か

    今のところ、それもいいだろう。

    

 

 

 

 

 

                        長い小説をお読み下さり、ありがとうございます(感謝)

                        無駄に長くなる傾向があるので気を付けたいと思います。

                        次の小説は翌朝から始まる予定です(もうやめとけ)

                         では、また。