桜

 

             「一緒に、来るか?」

             尚隆はそう言って、六太を見た。

             「…行っていいの?」

             笑顔でうなずいた尚隆が窓から鸞を放った。

             「…行く。」

             見上げる六太の頭をくしゃりとなで、酒瓶を手に取る。

             回廊に向かった尚隆に続いて部屋を出た六太は、そこで立ち止まって室内を見渡した。

             尚隆の私室。

             真ん中の文机に一枚の走り書き。

             六太がこの部屋に来たとき尚隆が書いていたもの。

             あれを見たときの朱衡達のことを思うと胸が痛む。

             「こんな時まで…麒麟ってやっかいだよな…」

             六太はそっと扉を閉じた。

 

             麗らかな春の午後だった。

             玄英宮の裏山に登る。

             桜はすでに盛りを過ぎて、風がなくても花びらが舞っていた。

             ここは尚隆の気に入りの場所だ。

             毎年、この季節に花見をする場所。

             尚隆が黙って酒を注ぐ。

             「…ありがとう…」

             声が少し震える。

             ふっと尚隆が笑う。

             「900年か…良くもったな。」

             「半分は陽子のおかげだな。そうでなきゃ尚隆はとっくに潰れてた。」

             「…そうだな。」

             登極して200年はただひたすらに国のことを考えていた。

             そして覚えた奇妙な虚脱感。

             終わりのない明日に足元をすくわれそうになりながら、足掻いたその後の300年。

             陽子と出会い、初めて知った安らぎ。

             陽子とともに歩いた400年は、この常世のならいを変えるものでもあった。

             国と国が不干渉をやめ親しくつきあい、荒民の対策を考えたり、国境の整備をしたりした。

             おかげで荒民の生活もある程度保証され、受け入れる国の負担も少なくて済むようになった。

             これでいい…。

             後は、あの連中が頑張って仮朝をたてていけば…。

             

             「あんの、馬鹿者共が!」

             主従に午後の政務をすっぽかされたと知った帷湍はいつものように叫んだ。

             「ここのところ神妙に政務をしていましたから、我々もつい油断しましたね。…どうした?朱衡。顔色が悪いぞ。」

             成笙の問いかけに手に持った紙を差し出す。

             そこには、尚隆の筆跡で一文が書いてあった。

             「『後は任せた』…なんだ?…これはまるで…いや、しかし…。」

             「今まで遊びに行くのに、わざわざこんなものを残していきましたか?」

             「いや。だが考えすぎでは…」

             「だとよろしいのですが…」

             足元から力が抜けていくようだ。

             一瞬の沈黙。お互いに青ざめた顔を見交わす。

             「とりあえず、宮城内を探す。」

             帷湍が足早に出て行く。

             「成笙、冢宰をこちらに。」

             「わかった。」

             独りになった朱衡は王の置き手紙を見る。

             (迂闊だった。最近大人しく政務をしていると思ったら、まさかこんな事を企んでいたとは…。)

             指先の震えは気を抜くと全身に広がりそうだった。

             (こんなにもあの男の存在は大きかったのか…)

             いっこうに収まらない胸騒ぎと指の震えに朱衡は唇を噛んだ。

 

             桜の下に六太をよこたえる。首と胴をつなげて。             

             「…やっと解放してもらえるんだな。約束、守ってくれてありがとう…。」

             そう言って微笑んだ六太は静かに目を閉じ尚隆の刃を待った。

             900年生きても少年の姿の麒麟。

             その細い首を落とすのは造作もないことだった。

             豊かな国を返す、遙か昔の約束。

             「よく頑張ったな、俺もお前も。あの連中も笑って迎えてくれるだろう。」

             若、と呼ばれたあの国の。

             見上げる空は抜けるように青い。

             その中を桜が舞う。

             「そろそろ彼奴らも気づいたろう。こちらに向かっている頃か。」

             スラリと刀を抜く。

             「仕上げと行くか。」

             

             「女官が酒瓶をもった主上を見かけたそうだ。」

             帷湍が駆け込んでくる。

             「主上が酒を飲んでいそうな所…」

             「やはり、裏山でしょうか?」

             言うなり朱衡は駆け出す。

             慌てて他の連中も続いた。

 

                             政務中の女王に鸞  が届いた。

             居合わせた女史は気を利かせて退室しようとした。

             「祥瓊 、すまないが急いで景麒をよんでくれないか。」

             陽子の沈んだ声に驚きながら、とりあえず仁重殿へと急ぐ。

             良くない知らせかも、という祥瓊 の言葉に慌てて王のもとへ駆けつける。

             陽子は鸞  を籠から出して手のひらに乗せていた。

             傍らに銀の小粒を入れた壺。

             「景麒…すまないが、此処に居てくれ。」

             ただならぬ様子を感じて陽子のすぐそばに寄った景麒は、陽子が銀の小粒を掴み損ねて幾つも落とすのを見た。

             右手が震えている。

             (いったい、何が…)

             訝しげに主を見やる。

             ふーっと大きく息を吐き、意を決したように陽子は震える指から銀を与えた。

             鸞  が口を開く。

             「陽子……。」

             愛しい人の声が流れる。

             「…先に逝く。」

             それきり、鸞  は口を閉じた。

             うろたえた景麒が陽子を見ると、目を見開いたまま震える手でもう一度銀をやろうとしていた。

             「陽子……。…先に逝く。」

             繰り返される言葉。

             そしてもう一度、銀を鳥の口元へ運ぶ。

             何も聞くことが出来なかったかのように。

             見かねて景麒が止めようとした時、浩瀚がやって来た。

             顔色が悪く、ひどく慌てている。

             浩瀚が口を開こうとしたとき

             「陽子……。…先に逝く。」

             三たび、尚隆の声が流れた。

             一瞬息をのんだ浩瀚は、しかしすぐに自分を取り戻した。

             「主上、先程鳳が鳴きました。延王崩御の知らせが…」

             パラパラと陽子の手から銀が落ちていった。

 

             永き治世をしいた王とその麒麟の骸の上に音もなく花びらが舞いつもる。

             一陣の風が吹き抜け花の梢を揺らしていった。

             

             

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                  先日、「遠来未来」様のCDを聞きながら車を運転していたら、透き通るような青い空

                      が見えまして。ふと、尚隆の最後は空を見上げて「ああ、空が青いな」などと想いながら

                      満足して逝けると良いな、などと思いまして……。(何でそうなるかな…)

                      そして、書いちゃったです…。

                      末声もの。

                      いろいろと不備な点は笑ってお許しくださいませ…。